SNSの嫌がらせを見逃さない3つの理由

ネットでの嫌がらせについて考え続けている。
「自分には無関係だし、関わりたくない」
「何か言われる人には原因があるのだろう」
多くの人が声にこそださないが心で考えているこれらが
いかに間違った考え方であるか、3つの理由から考えたい。

1、当事者同士での解決は困難
SNSの嫌がらせは、学校という密室で行なわれるいじめや
家庭という閉じた空間で行なわれるDVによく似た構図である。

匿名であることをヴェールに、他からは見えないように
しつこく嫌がらせを繰り返す。
周囲の人びとをブロックし、
ターゲットとする人物はブロックせずに、
執拗に嫌がらせを繰り返す人物もいる。
ターゲットとなった当人の恐怖を想像して欲しい。
それを指摘する周囲には嫌がらせ自体が全く見えなくなる、
実に巧妙で悪質な方法である。

これを当事者同士で解決することを想像してほしい。
いじめやDVも当事者で解決することが困難だから
匿名で相談ができる場所や第三者機関がある。
SNSの嫌がらせにはそのような場所はまだない。
第三者が介入し、また再発がないように、
見守る必要があることは明白なのに。

また、すぐに法的措置をとることが日常生活でも様々なハードルが在るのと同様、ネットでの嫌がらせも「じゃあ弁護士に相談すればいいじゃないか」というのは簡単だが、証拠集めなど、時間的また精神的にも、
日常生活をおくりながら準備するには負担が大きい事を想像してほしい。

当然、いじめやDVが苛烈になり人権侵害がおきている時には
迅速に法的手段を考えるべきで、SNSでも同様だが、
SNSで嫌がらせを繰り返す人物は巧妙に、
わかりやすい殺害予告や人権侵害を避けながら
周到に言葉を選びながら、なにかと相手の発言をもとに難癖をつけ嫌がらせをしているのが実際だ。それを、法的措置に結びつける困難さを想像してほしい。

SNSの嫌がらせ事例にたいし第三者が介入する仕組みをつくることが急がれると同時に、それを見つけた人が自分の善の心にそって指摘し、
報告をし、嫌がらせを密室にせず、
周囲に広く知らせることがまず、必要だろう。
2、嫌がらせは終わらない、新たなターゲットを探すだけ
Twitterで多数のフォロワーがいる人には
たいてい、つきまとっている嫌がらせ人物がいる。
直接@で嫌がらせをせず
巧妙にハッシュタグで特定の人を差す呼び名をつくり、
あれこれ難癖をつける行為がそれだ。

「憂さ晴らし」
「気に食わなかった」それが理由なのだろうか。

憂さ晴らしで赤ちゃんの乗ったベビーカーに襲いかかり
笑顔が無いといってコンビニの店員を土下座させ蹴りとばし重傷を負わせる。
憂さ晴らしが瞬間的に暴発するのがこれらの事件なら、
わたしには言葉でしつこく粘着する行為もまた同様に、悪質だと思う。

彼らの目的は当該の人物がその嫌がらせに疲弊し、
人びとを信頼することを辞め、SNSから去るその日を目標にしているのだろう。
そうすれば憂さ晴らしが完成なわけだ。でも嫌がらせは終わるだろうか。
ここでもいじめと同様、終わらない、
また次のターゲットを探すだけなのだから。

嫌がらせを野放しにして、
「自分には無関係だし、関わりたくない」
「何か言われる人には原因があるのだろう」
と声にこそださずみないふりをすることは賢明な行為といえるだろうか?
いつその矛先が自分にむくともわからない。
自分にむくのが怖いから、
当たり障りのない楽しいことだけをつぶやけばよいのだろうか?
それで自由な言論など育つと言えるだろうか?
身の安全が守られてはじめて人びとは、
自分のいいたいことが言えるのだから。

嫌がらせを放置することは
自分の居場所もまた危険にさらし、自由な言論から遠ざけているのだ、
と認識することがスタートラインだろう。
3、嫌がらせを放置することは言論の場を汚すことと同義

映画監督の相田和弘氏は東京新聞のインタビュー「ネットと言論」で
嫌がらせを指摘するのは街中の「ゴミ拾い」のようなものだ。と言っていた。
でも、私はゴミ拾いよりももっと勇気のいる、難しい行為だと思う。
だからこそ、尊いのだと思う。

指摘する人に矛先が向き、悪意がぶちまけられるのを何度もみてきた。
それを避けるために言葉選びに慎重になり下をむく自分。
街中のゴミを拾って捨てる行為は誰に非難される行為ではないが、
ネットでの嫌がらせを指摘すると、指摘した本人に嫌がらせが及ぶことがある。
簡単ではない、勇気がいる行為。
だから見ないふりするのではなくて、
だから、やらねばならないのだと思う。
見かけた時に。自分が見かけたから。理由はそれだけだ。

ただ、嫌がらせが蔓延している様子は
かつてのニューヨークの”Broken Window theory”を思い出させる。
窓ガラスが割れてあれた街には犯罪が多く、
だから割れた窓ガラスを修理し、街を整えると犯罪が減る、という理論。
言論の場が嫌がらせや罵倒、聞きたくない言葉で荒れればあれるほど、
本来聞き取りたい言論や良質な言葉は失われてしまう。
嫌がらせに黙して下をむく行為は、
自分がいる場所の価値を下げる行為なのである。

 

まとめ

そろそろ、日本も誰もが安心して発言できるコミュニティを育てたい。

はてな、発言小町、yahooの質問箱。どれも閉鎖された空間で集団リンチが起きているのを目にしては、恐ろしくなりページを閉じる。
でも、Twitterは違うと思いたい。
大震災の時にわたしにとっては連絡網として真っ先に機能して、テレビや新聞以上に情報を早く得る。いわば、今やインフラの一つ。

Twitterで聞いて欲しい大事なこと、嬉しいことをシェアして、
共感してくれる、まだ見ぬ仲間と出会える場所にしていく。
嫌がらせや憂さ晴らしが大手をふるう場所ではなく、
誰もが安全な場所から、自由闊達な議論が交わされるきっかけとなる場所にしたい。

そう願うのは、夢物語ではないはず。

具体的な方法を最後に。

だまって相手をブロックするだけでは事なかれ主義と同じ、不十分。

嫌がらせを目的としたアカウントをみつけたらTwitter社に報告をすること。報告をするフォームはここにあります。https://support.twitter.com/forms/abusiveuser

また、今後のために、継続している嫌がらせは記録をとること。自分にURLをメールしておく、魚拓を必ずとっておく。

そして、嫌がらせを受けている人やそれを見つけた人は、tweetを自分独りで抱ず、人目に晒すようにTweetすること、それに対して罵倒してきた相手のtweetも、また必ず人目に晒すこと。抱える密室にしてしまっては、相手の思うツボです。それを見かけた人もまた、罵倒している相手をレポートする、指摘する等、できる方法で対応し、相互援助関係を普段から築いておくことはいざという時 身を守る術となります。

もっと簡単にできることがあります。そのような行為をしている人を、フォローすることを即刻やめることです。あなたがフォロワーになっていることで相手は自分の行為を承認されています。これは嫌がらせに加担することとどう違うのでしょうか?

今、自分のフォローを見直すことからはじめてください。

Mina

トロル行為と性犯罪

表題では「トロル」と表現したが、現在のところ私には日本語として腑に落ちていない言葉なので、以下「嫌がらせ」等と表記する。

 

ネット上で他人に常軌を逸した嫌がらせを長期に渡ってしつこく続ける行為に関して、様々な人が様々なことを述べるのを眺めていた。いわゆる痴漢行為のそれにつくづく似ていると思う。他に人がたくさんいる中で堂々と行われる。衆人環視と言っておかしくない状況なのに、助けようとする人は滅多にいない。怒ってはっきりした行動を起こせば、周りから否定されたりやんわりと拒絶されたりする。まるで「逆らわずにそのままやられ続けてろ」と言わんばかりに。あるいはされる側に原因を求め、責任をかぶせるようなことをし始める。行動を変えろと言ってきたりする。

問題行動を起こしてる側を誰も止めない、咎めない。された側の方ばかりにどんどん荷物を積み上げるのだ。第三者が、時に善意の顔すらして。他人から理不尽な嫌がらせをされた人に、何も言わず耐えるというコストを払わせ、むしろ勝手に削り取って、おかしな人がそのまま嫌がらせし続けるための環境を守り整えている図式ではないのか? 不快な経験から回復するにはそれなりのエネルギーを消費する。他にもっと楽しかったり創造的だったりすることに回せたはずのエネルギーを。彼らが余計なことをしなければ払わずに済んだコストを。
人の悪意は自然現象と違う。忍耐はただで無限に湧いてくるものではない。立ち直ったかのように見えても、往々にして心の底には澱がたまったままで、当人を蝕み続けたりする。そのまま死に追い込むこともないとは言えない。

またよくある反応が、「気にしなければいい」「私なら気にしない」と言ったものだ。私にはほぼ意味が分からない。ああいうものは「気にする/しない」じゃなくて「なる/ならない」という種類のものだと思う。Aさんにとって気になるかどうかと、Bさんにとって気になるかどうかは、全く別の独立した話だろう。今それ関係なくね。「嫌がらせしてくる人々はあなたよりずっと低ランク(?)なのだから気にするな」もちょっと理解が難しい。いろいろ考えて、「上下関係(?)が覆されたので不快」という解釈なのかと思ったが、正直ピンと来ない感覚なのは変わらない。
そこでふと連想したのは、男性で痴漢被害を受けた場合に起こりがちな反応の話だ。他人に話す時は冗談や笑い話の形にしかできないとどこかで読んだ。傷ついた姿を見せるのは弱さの証であり、弱いと見なされると序列が一気に落ち、自尊心が余計にむしばまれ、悪くするとより苛烈な暴力の標的になることがありうる、確かそういう理由だったと思う。ネット上の嫌がらせについてもこの図式が当てはまるなら、怒ったり傷ついた様子を見せたりすることは、そういう世界観の人からすると「序列を自ら下げる」行為に当たるのかもしれない。そして嫌がらせをしている人にとっては、「自分の力が相手に及んだ!」「勝った!!」という解釈になったりするのかもしれない。さらに邪推すると、「私なら平気、気にしない」と言い出すことは、「私はお前より強いんだ」というマウンティングの性格があったりするかもね。
人として当然の反応なのにそれを封じられるのはきつい。序列争いの材料にするのは不毛だと思う。痛みや悲しみを回避せず直視するのには、本当にすごい力や強さが必要になる場合もあるのに… と書いたら、話がランク付けに戻ってしまうな。だけどこの際だから添えておく。大事なわりにすごくないがしろにされてると思うから。
他人から卑劣な攻撃を受けている時、周りが誰一人として手を差し伸べないという経験は、社会への信頼というものをずいぶんひどく損うはずだと思う。「他人をそういうふうに攻撃することは、世の中で許され受け入れられている」「私はそのような扱いを受けても良い、問題ない存在だと見なされている」という、この上なく明白なメッセージとして機能するから。もちろん見過ごす人々全てに悪意があるわけではない、単に恐くて手出しができない人も多いはず、そう頭では分かっても、実感として身にしみるのは強烈なものがあるはず。しかもそれが何度も繰り返されて改善されそうもないとなれば、属性まるごとへの嫌悪が抑えられなくなったり、諦めたり無気力になったりしても誰が責められよう。

攻撃者に目をつけられるのが悪い、気にせず受け流せないなら発言や行動をやめてしまっても仕方ない、そういう考えもあるだろう。しかしそれでは結局のところ、表われてくるものの画一化を招くだけではないか? 相当タフか、果てしなく鈍感か麻痺しているか、そういう人しか出て来れなくなるのではないか? 多くの人にとって見えづらい場所から、小さい声で恐る恐る語り出されるようなものごとを、口にする前からことごとく葬り去る作用を持たないか? そうやって沈黙し、姿を消してしまった人々を、誰しも何人か思い出せるのではないか?

ごく一部の、とても恵まれた条件を持つ人々しか発言に至らない、続けられないような世界に、言論の自由があると言えるだろうか。

攻撃者を完全に排除することが可能かどうかはひとまず問題にしない。どういう世の中であってほしいかという話をしているつもりだ。
あなたはどんな世の中を望みますか。
暴力を振るって良い人も振るわれて良い人もいない。私はそう思っているし、そういう社会であって欲しいと願っている。そのためにできることは何があるのだろう。