座礁して

死ぬことも叶わずいいかげん長生きすると戦争に一家言あるかのような人間になるのかという疑問はひとまず置いといて、メディアで喧伝されるような、あるいは学校で教育されるような最大公約数の見解だけではなく、肉親を介して伝えられる記憶というものが、ここでも誰しもとは口が裂けても言わないが、一般的にはあるだろう。

私の断片的な記憶で口伝を辿るのなら、亡くなった仙台の大叔母は郡山空襲(1945(昭和20)年4月12日)の折に郡山駅に勤めており危うく難を逃れたという。「あれは地獄絵図だった」と聞いた気がするがその詳細が話されることはなかった。また父母の実家にあたる石川郡平田村や田村郡小野町で米軍の機銃掃射を受けて亡くなった人の話も聞いたが、なんでこんな山奥でと疑問に感じるものであった。遡って、私が母に手をひかれていた頃、小野町のバス停で片腕が無い人を見かけ、指差し「どうして、あの人には手が無いのか」と尋ね嗜められた記憶もある。

ややこしいのだが母は叔父夫婦の養女として育てられた関係で、父母をそれぞれ二人もつ。政略結婚だったという説もあるが、生みの母は従兄弟にあたる東京蒲田にあった電気工事業を生業とする家に嫁いだ。重(しげ)ちゃん(夫)がいればそうはならなかったろうと言われたが、嫁ぎ先でいまでいういじめに遭い、結核を罹患して実家に戻り後に幼い母を残して死別することになる。重ちゃんが不在であったのは出征していたからであり。肩で風を切って歩いていたという無頼漢でもあった祖父は後に精神を病んだ。

母を実際に育てたのは健在だった祖母であったが、育ての母にあたる都美子は空に敵機を見かけると、母をおぶって一目散に防空壕に隠れた。赤ん坊が泣くと飛行機に聞こえるので泣かせないように必死だったそうだが、それも笑い話だ。けして賢いとはいえないこの馬鹿正直な気性の祖母が私の記憶に残る祖母であり、いまでも美味いものを食わせてやりたかったなあと思う。

他にも思い出されるエピソードはあるが、あまりに個人史に傾きすぎるだろう。

筆者:  Lazarus

自由であること

戦争など起こらないほうがいいということは誰の目にも明らかなことですが、世界にはまだ戦争が存在します。残念ながら人類は武力なしで全ての争いを解決できる成熟に至っておらず、時には武器を取り戦う必要があります。しかし、日本が今やろうとしているのは、そういった止むを得ない場合に行使する力を整えることとは言えません。

自由主義社会の人たちは、自由を守るために犠牲を払っています。日本は他国の兵士が血で贖った平和を享受していると批判を受けることもあるでしょう。今この時にも戦場にある兵士たちや、その身を案じる家族や恋人に「どうして、あなたではなく自分なのだ」と言われたら、私には返す言葉がありません。しかし、その心の痛みを安直に解消するために、日本が武器を取り戦うことはできません。日本にはその資格がないからです。

日本が武力を持ってはいけないのは、真に自由主義であると言えないからです。先の大戦の終わりに至るまで、日本の支配層は自分を大きく見せる幻想に取りつかれ、報道はそれを煽り、人々は熱狂しあるいは流されてそれを受け入れ、周囲の国々に惨禍をもたらし自らは破滅しました。そして、戦後70年を経ても日本の本質は変わっていません。そのような社会が再び武装することになれば、いずれ同様な結果をもたらすでしょう。

全体主義社会の中で生きるのは、ある一面から見れば楽なことです。意思決定を上位の存在に委ね、ある程度の自由と食うに困らない環境を与えられて、ただ従っていればいいのです。他の社会との競争において、個を抑えて秩序を重んじる構造が有利に働く局面もあるでしょう。しかし、その意思が誤った道に向かう時、考えることを放棄した社会の構成員にはそれを止めるのは難しくなります。人間が「上の命令に従って、周りと同じことをやっただけ」で想像を絶するような残虐行為に及ぶことは、歴史上の数々の出来事が証明しています。ナチスドイツ、ルワンダのフツ族、オウム真理教、もちろん大日本帝国も。

人々は言うでしょう。「命令されてやったけれど、他に選択肢はなかった。従わなければ自分が殺されていた。本当に悪いのは上の者だちだ」と。しかし、そのような社会にしてしまった責任は、その人たちにもあります。調べて、考えて、他者の意見も検討して、自分の意見を表現することは、誰かの言うことを鵜呑みにすることよりも手間がかかります。集団内に軋轢を生むことは嫌われるし、その同調圧力にも抗うことになるでしょう。それでも私たちは、それぞれが善を追求し、意見を述べ合い、進むべき道を選んで行かなければなりません。怠惰に流されるままに、悪意ある者に利用され、その手足となるような社会にしてはいけないのです。

そもそも人間は、ひとりひとりが幸せになるために生きています。社会も国家もそれを支える仕組みとして存在します。自由を尊重する社会を実現して初めて、それを脅かすものと戦う資格を持つのです。国際社会の平和の実現に日本が戦力という形で貢献していないことを申し訳なく思うなら、まず、日本が真に自由を希求する社会にならなければならないのです。

野心のある大国の拡張傾向から身を守らねばならないという言説はもっともらしく聞こえますが、それは本当に今起こっていることでしょうか。「隣人がお前のものを奪いにくる。その前に殺さなければならない」と、どう違うのでしょうか。解決する手段は戦力を整備し誇示することだけなのでしょうか。はたしてその方策は有効なのでしょうか。全体主義の脅威を叫びながら、それに対抗するのに自身が全体主義化するのは本末転倒ではないでしょうか。そうなった時に、今味方である国々がそのままの立場でいるでしょうか。

私は自由でいたいと思います。他の人たちにも自由であってもらいたいと思います。そのために戦うことも、時には必要かもしれません。しかし、誰かの幻想の中にある「立派な国家」を守るために戦うのは馬鹿げているし、利用されたくありません。それに流されないためにも、私は自由であろうと思います。

一プレイヤーとして

最近印象に残った記事がある。

tokyoshinbun

戦時中NHKアナウンサーだった近藤富枝さんのインタビュー記事。(東京新聞より)
「今の日本とほとんど同じだと思う。庶民が無関心でいるうちにおかしくなっていった。始まりは満州事変。軍部が『戦争ではない、事変だ』とうそをつきながら軍事行動を続けても、一般の人の関心は本当になかった。真珠湾攻撃にしても、ある日突然、ラジオのニュースで知った感じ。言葉でだますのが為政者の体質なの。『八紘一宇』とかいろんなスローガンを作って先導し、退却を「転身」、全滅を「玉砕」ってごまかして、死というものに鈍感にさせた。戦争はひとりでに始まり、ひとりでに恐ろしいものになってた。
….全滅なら残酷でも、玉砕だとなんか美しくなっちゃうじゃない。言葉って怖い。『終戦』だってうそよ、本当は敗戦なのに。だから今どきの政治家が軽くかんがえるようになったんじゃない?」

敗戦を、「終戦」と言い換えることから、日本の戦後の嘘は始まっていた。
第二次世界大戦は日本にとっては”戦争”ではなくて
”東アジア圏を列強諸国から守り、平和を築く”,そう「積極的平和主義」そのものだった。

敗戦に70年たっても向き合うことができないまま、また戦争ができる道へ、
憲法を変えないままに拡大解釈によって日本が踏み出そうとしている。

私には戦争は遠い時代の話ではなかった。
子供の頃から「戦争は絶対にいけない」「日本は平和主義の国」と教科書で習い、毎年夏になると「戦争を知っていますか」という戦争体験者が涙を流しながら戦中の話をするNHKの番組が流れ、図書館や学級文庫には「はだしのゲン」が並び、皆がおそるおそるでも食い入るように読んだ。
「ビルマの竪琴」「火垂るの墓」「太陽の帝国」.. 第二次大戦を描いた映画も夏になると流れ、子供の頃から沢山みた記憶がある。
18歳の時、米国に留学している夏に母から送られて来たのは「ひめゆりの塔」の本だった。
どれも、戦争に散った命を美化したり賞賛したりするものではなく、
惨めで、棒切れのように人が死んでいき、意志に関わらず運命を翻弄される。
身体の痛みこそなかったけれど、命を無為に突然奪われる空しさ。
周りの大人が、精一杯「日本は二度と戦争をしない」と教えてきたのが、
わたしの子供時代だった。

でも今周りを見渡す。
習ってきたことをひとつひとつ、黒く塗りつぶすような声がきこえてくる。
「南京大虐殺はなかった」
「従軍慰安婦の強制連行はなかった」
「非核三原則は当然だから触れなかった」
「核ミサイルは弾薬である、だから日本も輸送できる」
「戦争をできるようにする法案ではなく、国民を守るためにつくる法案である。」

ひそひそと小声で囁かれていた事がいつのまにか大声で
まことしやかに述べられて、すっとまかり通る気がしてくる。

周りから聞こえてくる大きな声が、自分に問いかけるようだ。
「70年もたつと色んな状況が変わるでしょう?」
「本当だと思っていたことだって実際はこうなんだよ。
知らない無知な君がとやかくいうことではないよ。」

耳障りよい言葉、大きな声、”多くの人が信じている”と言われることを
受け入れることはどんなに安心で、簡単だろう。
でも、大きな声で聞こえてくることだけに耳をすましていては
破滅に向かうということを70年前に経験したのが、日本だった。

4年前に視線をうつしてみる。
日本は震災と原発事故に見舞われた。
今でも避難生活を送る人々は復興庁が発表するだけで20万人いる。
健康で文化的な生活の場所を根底から奪われた人が、20万人いる。
「原発は安全でクリーンなエネルギー」
「破滅的な事故が起きる確立はとても低い」繰り返し述べられて来たこと。
でも、事実は違った。
20万人の人が移住しなければならない破滅的な事故がおき、
未だ収束していない原発は安全なエネルギーとはもう言えない。それが事実。

東北震災と、その後の為政者の玉虫色の言葉に晒された私たちは
かつての私たちではない。
不幸中の幸いというか、大きな声で一つのことが叫ばれる時には
何かが覆い隠されていることを、経験によって知ってしまった。

これからのために、前向きな明るい話を少しでもしたい。
70年経って何が大きくかわっただろう?
外交と一言でいっても、それは国と国の代表が恭しく交わすものだけではなく
日常的に私たちが情報や文化や経済をやりとりする、
それも外交の一部になったとは言えないだろうか。

戦後長い間禁止されていた日本映画は2004年に全て韓国で放映可能にになり、
韓国のドラマや映画は日本で日常的に放映されとても人気がある。
最近では同性婚が全米で認められるや否や、
日本でも渋谷区や世田谷区がそれに続いた。
連日報道された香港の学生デモが、今の日本のSEALDsの活動に無関係だとは思わない。

最低限健康で文化的な生活を送るための人権意識が、
広く世界中に広まり、
人権を守ろうとする小さな潮流でも
国家の枠組みを軽々越えてまたたくまに伝わって行くのが、今ではないだろうか。

”国家”に全てを握られていると、悲観しすぎず、自暴自棄にならずにいよう。
全体主義は必ず、内側から倒れてきたことは歴史が証明しているし
破滅への疾走を再び経験しなければならないほど、
自分達をおとしめることはないはず。

自分の国と関係のない場所にいって棒切れのように死にたいひとがいるだろうか?
拷問を受ける立場を自ら望むひとはいるだろうか?
また、誰かにそれを強いたい人はいるだろうか?

一度手にした人権意識を、それが瞬時に繋いでくれる世界との連帯を、
自ら手放してはいけない。
その感覚を頼りに、対話を重ねていこう。
外交は、もはや”国家”だけがプレイヤーではないのだから。

最後に、アジアの方々に心からお詫びしたい。
日本がかつて侵略戦争をしたこと、わたしは本当に申し訳なかったと感じています。
沢山の人を殺して、辛い想いをさせたこと、
今でも日本へ恨みをもっている人も沢山、いるだろうと思う。
貴方の目を私は見つめることができるだろうか?

今も続く、鈍感で無知で傲慢な振る舞いを、どうか許して欲しい。
ごめんなさい。

わたしが今できることは、大きな声に惑わされることなく
日本人である前に一人のひととして、
向き合って対話をしていくことです。
そのために耳をすませ、言葉を重ねていこうと思っています。

これからも、隣同士で対話をさせてください。
あなたがたの姿勢にいつも刺激を受け、背筋を伸ばす想いでいます。

Finally, I would like to apologize from bottom of my soul to people in Asia, who suffered from the war caused by invasion of Japan. Japanese killed so many people, and caused great sorrow and suffering from what we did, also how we behave ignorantly even now.

What at least I could do is not to just listen to loud voices, but hear and talk to people very next to us. I am a human being just like you before I am Japanese.
Please be there to talk for another decades. You always have been and will be inspiration for us to straighten ourselves.

筆者: mina

操るもの

戦時中の亡霊みたいな言葉を見かけることがとみに増えてきた。そう感じるようになったのはいつ頃からだったろうか。先の大戦という文脈に乗らない「英霊」の使用で引っかかったのはもう10年以上前。公私の別なく、さらには右左とやらの立場も問わず、ちょくちょく視界に入る。自分の嗜好が多大に反映されているはずのネットですらそうなのだ。愛国、憂国、国益、売国、売国奴、非国民。「玉砕」あたりなら、もっとずっと以前から、かつての使われ方と一緒にならないよう、冗談になるような意味合いで使うこともあったけど。「不敬」がかつての意味そのままに近い用法でさらっと混ざっており、かなりぞわぞわしたのはここ5年くらいのこと。そのうち「御真影」あたりも復活して「遥拝」も登場するんだろうか。最近はついに「散華」を見かけてしまった。本当に怖い。
特定の思考や行動様式に従わない者を糾弾し吊るし上げるための言葉。個人のただただ悲惨な死を脱臭し美化するための言葉。みこしを持ち上げて疑問を抹殺するための言葉。それを支えるイデオロギーの数々。
全ての言葉は歴史性をまとっている。かつて使われた場面の数々に加え、それらの根である観念と思考様式まで、芋づるみたいにぞろりとまとわりついてくる。切断することはできない。不用意に選んで書いたり話したりしていると、知らないうちにそれらもまとめて肯定し、望まぬものに加担しかねないのだ。
言葉は使う者を支配する。むしろ言葉が発言者を使う。かつての日本は私たちの中にずっと生き続けていて、一気に可視化されてきたのかもしれない。一時姿を現したという渋谷川のように。

兵器のことは全く分からないし興味もないが、昔の日本の戦闘機や戦艦の名前はとても好きだった。スペックは知らない、理解もできない、歴史も運命も特に調べない、だけど名前だけはすごく心ひかれた。何しろ美しい。各種の自然現象や花、いろんな日本の地名、山河から借りられたそれらは、漢字の姿すら魅惑的に映る。音も加わったらもっと強力かも知れない。
美しいものには気をつけねばならない。
同じ名前がついているものにはどうしても引きずられる。普段から身の周りの自然になじみ、折に触れて美しさを愛で、素朴な愛着を覚える心を動員する働きがあると思う。そして美化する。ナチのかっこいい制服より性質が悪いかもしれない。今なら「二次嫁」もそうだろうか。
この時期は流通量が増える、戦争にまつわる物語。空襲や被爆や特攻が種々の語られ方をする、そこまでは良い。しかし自らを被害者とみなす視点ばかりなのは引っかかる。「このような地獄を生み出す戦争は二度と繰り返してはならない」の影に、「あんな事実やこんな過去はなかったことにしたい」欲求が隠れ、さらには「今度こそ勝者の側に立つ、そうすれば我々にこのような被害は生み出されない」に向かっているような気がする。自分の気分が良くなる所、はっきり言えば自己愛のエサにできそうな部分だけを取捨選択してつまみ、かつて存在した人の物語を口当たり良く加工して書き換えるのは、時に死者への冒涜にならないか? 今現在生きている被害者への侮辱が繰り返されて、空気のようにすらなっている世の中なのに。
言葉を血肉とし、物語を取り込み骨とする、私はそうして成立しているのだ。思っている以上にちょろくて乗せられやすいはず。だからこそ用心せずにいられない。言葉ですくい取れないものの方がいつだってずっと膨大で、非業の死が美しいのはフィクションの中だけ。実在する他人の命や人生で、破滅や悲惨の美学とやらを味わいたい欲求がある。おそらくは私にも。地獄みたいな経験はなければない方がいいに決まってる。分かっているつもりなのに。

自分の言葉で語るのは、なぜだかいつも怖くて、できれば永久に隠しておきたい気持ちがある。ここ何年かは特にそうかもしれない。だけど、納得の行かない、少しでも引っかかるような言葉を使って流されるのはもっと嫌な感じがする。頭の中の自由を自分以外の都合でいじられたくない。明け渡したらおしまいだと思っている。蟻よりも微力だって気がしていても。せめてささやかな抵抗の証としてここに記す。次の8月15日が今よりましになっていることを祈って。

少年兵

もうね。何が怖かったかって、個人的に怖かったのは、メーホンソンの山道を125ccのカワサキで走っていたときに砂利道で転倒して、すぐ眼下に崖が開けていたときや、メキシコシティで見るからに危ない連中に囲まれて全力で走って逃げたこととか、モロッコは良い所なのにタンジェの街だけは、ひどくイヤな感じで怖くて、暗いホテルの部屋でじーっと気配を殺していたり、バンコクで乗ったタクシーの運転手さんが明らかに覚醒剤中毒ぽくて、吐く息の匂いが嗅いだことのない邪悪な臭いで、行き先を伝えるまえにアクセルぐいーんて踏まれて、もうこんなときに言うべきタイ語なんて咄嗟には思いつかないわけで、ふと見た運転席のドアのポケットからは山刀の柄が見えてるし、走行中にドア開けて飛び降りたら危ないよなあ……などと考えていたら赤信号で停車したんで百バーツ札渡して「ここでいい。ありがとう」と逃げ出したり、でもそんなの四年まえの郡山で遭った震災のときの「もうだめだ」には敵わない。思い返すとよくここまで無事に生きてきたよなあ、と思う。

でもやっぱり文句なしに一番怖かったのは少年兵だ。
少年兵はライフル持ってて、銃口をおれに向けてくるからね。
ガラス玉みたいな、切れない刃物みたいな、蛇が笑ったらこんな目つきなのかな、って目。
銃を構えながら何か言ってて、でもクメール語だから、何言ってんのかわかんないし。
そんなとき、助かる方法は幾つかあるんだろうけど、おれが知ってる唯一の方法は「失禁する。それを見た少年兵が鼻で嗤って銃口を下げるから」というもので、ちょっと考えてみても、それはあんまり有効とは思えない。この方法で他の少年兵でも銃口を下げて命拾いできるのか、カンボジア以外の地でも通用するのか。そのへんもぜんぜん保証できない。
つうか戦場で身を守るためには失禁なんて、有効なわけないよね。そもそも、あそこは戦場と言っていいのか。内戦の最前線から遠く離れた場所だったし。

少年兵が何を思っていたのかなんて、今になってもわからない。
敵でも味方でもなさそうな、何だか関係ない他所の国のおっさん。そんなの撃ってもどうってことないって事だったのか。わかんないよね。
わかったことは、銃は怖いってこと。少年兵は怖いってこと。ここで判断が止まったまま、その後先が考えられない。もう二十数年も経つから、あの恐怖を冷静に考えられるだろうか、なんて思ってみたけれど、やっぱり今年も駄目だった。
記憶に重い蓋が乗ってるみたいで、細かいことが思い出せない。
当時おれは、いっぱしの野次馬のつもりだったけど、銃口向けられたら失禁しちゃうだけの無謀な傍観者で、命をかけてまで人に伝えたいことなんてないんだな、と思い知らされた日だった。
あれは春だったのか。それとも夏だったっけ。それも憶えてないけど、とても暑い日だった。カンボジアだからね。一年中暑いんだ。もう数千年もそんな暑い日ばかり。その頃、あそこでひとが死ぬのは、肉屋が肉を売るのと同じくらいあたりまえのことで、よっぽどの用がなけりゃ、そんな所へ行ってはいけない。

カンボジアで怖い目に遭うまえは、戦争についても、何か意見があったはずなんだが。なんかね、撃たれてもいないのに、言葉が粉々になって、その輪郭を埋める言葉を拾い集められない。
野次馬(ジャーナリストね)をやめて、五年くらい日本語から離れてもみたけど、ほかの国の言葉でなら言えるのかというと、もちろんそんなことはなくて、戦争については、「あれは、よくない」と言うのがせいぜいで、なん年か経って、うまく考えることができたら、また書こうと思います。

筆者: kochasaeng

目印

終戦記念日が近づいてくると、戦争にまつわるエピソードの記事を新聞、テレビニュース、web、SNSなどで多く見かける。それは毎年の事で、私が子どもの頃から、自分の生活の中で当たり前にある日常の一部だった。
戦争の悲惨さを伝える手記や記事、TVから流れてくる戦争体験談、そのどれもが恐ろしく哀しい話であったと思い出される。

正直それらに触れるのは嫌だった。
今でもなんとなく避けている。
子どもの頃は怖くて、そんな時代に生まれなくて良かったと安堵した。今は、特に自分に子どもが生まれてからは、戦争の話を見たり、聞いたりするのが辛い。そんな自分に後ろめたさを感じつつ、今までの様にこれからも平穏な生活をずっと続けて行けると思っていた。
今、政府のしている事に強い不安を覚える。自分が立っている場所は、あの時から大分離れた所で、先行きはどうなるか分からない。もしかしたら、話に聞いているだけだった悲惨の中に飛び込む事になるかもしれない。
そんなのは、嫌だ。
私個人ができる事などほんの少しで、少しどころか殆ど無い様に思う。けれども自分と自分の身近な人達の幸せの為に歩いて行こうと思う。
8月15日を前にここに自分の目印を立てて行きます。

筆者: nasu

八月十四日の一葉

江の島に自転車で行くときに、風に乗った海鳥の群れが後からやってきて、並走しながら一緒に橋を渡ったことがあります。
たまたま風の具合でそうなったのか人間で遊んでいたのかわからないけれど、お互いを意識し合った数十秒間は普段と違って、心に残っている出来事です。

散歩中に猫に声をかけて返事が返ってくればうれしいし、家族や友人・好きな人と話したり食事をすれば楽しい。知らない人と友達になれればさらに刺激的。

私はことなるヒトと対話する清新な驚き、そういうものが生活の前面にあり、「国」や「政治」はその後方にあって人を支えるものであってほしい。
2008年、大学3年生だった頃に、今の日本の状況は戦後というより戦前に近くなっているのではないか?と思ったことがあった。
2011年、あの地震があって、とっくの昔に死に絶えたか古い本の中に痕跡を残すだけになっていると思っていたものが、実は生きていて厚いカーテンの後ろで息を潜めていたことを知った。
2015年の今、彼らは表舞台に立ち「我々はこうしたい」「我々はこう思う」だけで法律を捻じ曲げ、国や政治こそが主でひとりひとりの人間は従であるという体制を作り上げようとしています。

私はひとつになりたくない。
おそらくこれから数年の間、さまざまな「一丸となって」困難な局面に立ち向かおうという運動が出てくるでしょう。
自分の思った差異や違和感を表すことがさらに躊躇われる社会になるかもしれない。
しかし私はお互いを大切にし、誰もがその違いを枉げられないという、過去多くの人がそうあれかしと望んだ場所でこそ生活を営みたい。
通勤電車の障害物だと思っていたカタマリが実は自分と同じ人間だったということ。
あなたにとっての「他人」が「他の誰かにとっての大切な人」であるということ。
そんな当たり前のことすら、考え感じることを怠けてしまったせいで実感することが難しくなっている。

地震の後、私たちは喪失を悲しみお互いの無事をよろこびあった。
70年前、世界中で同じことが起きていたと思う。
そこには全体の一部でない、ひとりひとりの人間がいたはずです。

私は目が合った人には手を振りたい。
あなたも振り返してくれるととてもうれしい。
筆者: Lōtophagoi

言葉と自分

いまって「戦後」なのかな、それとももしかしたら新しい「戦前」なのかな、って思うことがあります。変化はいつ頃だったのかな、1995年だろうか、2011年だろうか、それとももっと他のきっかけがあったのだろうかって。昔から何もかわっていなくて、わたしがいろいろなことに気づくようになってきただけなのかもしれない。けど、なんだか色んな変化の流れが急になっているような感覚は確かにあるし。

いつの間にか、言葉がその場その場の体裁を繕うだけ、制限時間を埋めるためのものだけになってしまってはいないでしょうか。自分たちが如何に優れているかを常に声高に確認しないと二本の足で立ち上がることができなくなってしまってはいないでしょうか。それに影響を受けて、すべてを上下の関係でみてしまってはいないでしょうか。挙げ句の果てに、どういうわけか自分のことを暗黙のうちに上に置いていないでしょうか。まわりからどう見られているかだけに気をとられて、中心が空っぽになってしまっていないでしょうか。まわりの視線をエクスキューズにして自分以外のひとになにかを押しつけたりしていないでしょうか。

いま必要なのは、誠実に言葉を重ねること、周りの人たちにどう見られているかを妄想することなく、実際に相手の前に行ってその声を聞いて根気強く対話すること、いろいろな関係性を上下ではなくフラットにとらえること、自分の評価を他人にゆだねないこと、「私」がどう感じ考えるかを一人称で語ること、そうやってひとりひとりが「自分」になること、そんなことなのではないのかな、と感じます。動きながら変わらなければならない、しかも、かなり大がかりに。これはなかなか大変です。最近の世の中を見ていると、少しは素敵な芽が出てきているというような兆候もあるようにも感じます。わたしもまずは自分から大事にしていきたいと思います。

(無題A)

吉本さんだったか「戦争の本質とは国と国との戦いではなく、支配者と被支配者との戦いである」という言葉を読んだことがある。その意味では日本の終戦はようやく始まりつつある段階なんじゃないかと感じる時があります。

今の僕には3歳の息子がいます。彼が大きくなったとき、立派に死んで来いと言いながら万歳三唱で送りだす自分はなかなか考えにくいですが、残念ながらそして恐ろしいことに少し想像できてしまったりもします。
比較するのは間違いかもしれませんが、東日本大震災後、僕は政府やエライ学者先生の説明を読んで考えたり、周りの同僚や友達と話した結果、いま住んでいるところは食べ物含め大丈夫じゃないかと判断しました。しかし、一方で直観的にはあれ以来ずっと危険、特に食べ物は危険だと感じています。
そんな中言い方は悪いが、子供を放置し続けていることを是としている自分が果たして、日本国中「戦争やむなし」のムード(どう理屈で考えても戦争をするのが正しくて周りもそれを認めざるを得ないであろう状況)になった時、より分かりやすい危険だとはいえ、それに反対できるとはいいきれないでしょう。

来るべき日に備えて今の自分ができる事は何か、それはまず自分に優しくすること、と同時に自分と他人の自由というものに貪欲になることだと考えています。
そしてそれは頭で考えて理屈に合わない間違ったことであっても構わない、なんならそのほうがよいのだと思います。

砂漠の案内人との対話

“あるキャラバンが、砂漠を横断する旅に出かけました。
広大な砂漠で方角を見失わないためには案内人が必要です。
このキャラバンにも案内人が同行していました。

ところが、途中で砂嵐に遭遇してしまい、予定よりも大幅に日数がかかることになってしまいました。
次第次第に、手持ちの食料や水が底をつき始め、不安にかられた人々は、荒涼とした灼熱の風景の向こうに夢のように浮かび上がる緑の蜃気楼に惹かれてゆきます。
一人、また一人と、それまでとは違う方向にフラフラと歩み始めました。
案内人はその度に「そっちじゃない、こっちだ」「そっちじゃない、こっちだ」と、呼びかけては、目的地に向かう道に人々を呼び戻していました。

そういう状態が何日か続いたある日、これまでにないほど瑞々しく豊かな蜃気楼が、ほんの数キロメートル先かと思われる様子で姿を現しました。
空腹と疲れと喉の渇きが頂点に達していた一行は、我先に!と、幻のオアシスに向かって歩みを速めます。

案内人は、またも一行を引きとめようとするのですが、そのことが、もう何十回目、何百回目かと思われる「そっちじゃない、こっちだ」の繰り返しに飽き飽きしていた人々を逆上させました。
中の一人がナイフを取り出し、案内人の心臓めがけて突き立てました。

灼熱の砂の上に崩れ落ちた案内人は、それでもなお、目的地へ至る道を指し示し続け、かぼそく弱々しい声で「そっちじゃない、こっちだ」「そっちじゃない、こっちだ」と繰り返しながら息を引き取りました。”

このたとえ話は、エルサルバドル軍事政権の下で殺害されたある聖職者の葬儀の際に、彼の友人でありサンサルバドルの大司教であったオスカル・ロメロが行った説教が元になっています。ロメロ自身も、社会の不正や暴力に積極的に異を唱え、貧しい人々や虐げられた人々の声を世界に届け続けた故に、エルサルバドル政府やカトリック教会の上層部と対立し、1980年に暗殺されました。冒頭にお話した説教から数年後のことでした。
彼が殺害された3月24日は、世界のあちこちで記念日とされており、国連もこの日を「人権侵害の真相を知る権利と被害者の尊厳を守るための国際デー(International Day for the Right to the Truth concerning Gross Human Rights Violations and for the Dignity of Victims)」としています。

ロメロが「砂漠の案内人が指し示す道」、「“そっち”ではなく“こっち”」という言い回しで伝えたかったものはなんでしょうか。それは、あえて言葉にすると「反暴力」「不正への抵抗」「人権の尊重」「自由」「貧困者に寄り添う」「生命に向かう」というようなものになると思われますが、そういった言葉に定義、変換して規範化しようとした途端に、彼のメッセージの最も中心にある、大切な大切なものが、私の指の間からすり抜けてこぼれていってしまうような感覚を憶えます。蜃気楼へと誘う声も、これらの言葉を好んで使用するからです。
幻のオアシスへと私達を導いてゆこうとする幾千の「こっちだ」「あっちだ」「そっちじゃない」という騒がしくも魅惑的な声の中から、息も絶え絶えな“案内人”のか細い声を聞き分けるのは至難の業です。

* * *

私はイタリアに20年ほど前から住んでいますが、ここ10年ほどの間に、イタリアにおいて「日本」という存在は本当に影が薄くなりました。以前は、自動車、家電、オーディオ機器、カメラなど日本製工業製品が店頭の主要な位置を占め、朝や午後の時間帯にテレビをつけると日本製の子供向けアニメが映し出され、報道番組ではニュースキャスターの背後にかかっている時計の針はRoma、New York、Tokyoのそれぞれの時間を示していたものです。
それが今では日本発ブランドの工業製品は陳列棚の目立たない位置に移動し、国際的な雰囲気を演出する時計はTokyoではなくPechinoやShanghaiの時間を表示するようになりました。子供向けアニメはまだ目にする機会は多いものの、以前に比べて欧州やアメリカ製のものが増えました。

そんな中でも、毎年八月になるとイタリアでは必ず、Giappone(日本)という言葉を耳にする頻度がグンと上がります。1945年のこの月に、広島と長崎への原子爆弾投下が行われたからです。TVでは広島での、次いで長崎でのそれぞれの平和式典の様子が主要ニュースとして伝えられ、70年前のこれらの出来事についての特集番組が放送されます。また、地域の文化センターなどでは、この出来事をテーマにした行事が催されたりもします。
なぜでしょうか。
それはこの出来事について考えることが、人種、文化、宗教、国籍などの違いを超える普遍性をもって、一人一人の私達にオスカル・ロメロが言うところの“砂漠の案内人の声”に耳を傾ける機会を与えるからです。

とりわけ、70年前に行われた広島・長崎への原子爆弾投下という出来事を、いま現在の私達一人一人に関わる普遍的なテーマとして、“砂漠の案内人の声”を聞きわける助けになるものとして捉え続けてゆく上で見逃してはいけないと私が考えるものは、広島の平和公園の慰霊碑に刻まれている碑文です。

「安らかに眠って下さい
過ちは繰返しませぬから」

この短く簡単なフレーズについては、碑が建立された1952年の当初から賛否の議論が沸き起こり、60年以上が経過した2015年の現在まで続いています。それはこの言葉が、日常の論理を覆し粉々に吹き飛ばして、私達の“こころ”に直接呼びかけ、揺さぶり、平穏な気持ちをかき乱す、“案内人”その人から発せられた“声”であるからです。
同時に、このフレーズの主語は、全世界を巻き込んだ戦争の末の原子爆弾投下という事実に象徴される「人間性の敗北」を再びもたらすことに否を唱え続ける決意を主体的に表明する一人一人の私達です。
“砂漠の案内人”は私達一人一人の内にいるのです。

私が内なる“案内人”に導かれて、70年前の出来事を思いつつ「安らかに眠ってください」と語りかけるとき、その言葉が向かう先には様々な人々がいます。
真夏の日差しの中で一休みしようと建物の石段に腰掛けて、そのまま影になってしまった人、「お昼ごはんまだかなぁ」と思いながら外で遊んでいたら、全身が松明のように燃え上がってしまった子供、死んだ赤ん坊を抱きかかえながら自身の身体の皮を引きずってユラユラと歩く人、水を求めて死体で満ちた川のほとりで息を引き取る人、救援のため廃墟となった市街に入って放射線を浴び、その後遺症に何年も苦しみながら亡くなった人、広島や長崎とは離れた場所の空襲で、崩れた家の梁の下敷きになって抜け出せないまま焼け死んだ人、両親を失って他に頼る身寄りもなく餓死してゆく子供、故郷から遠くはなれた南の島で飢えた犬のように空しく死んでゆく兵士、その兵士達にボロ雑巾よりも更にひどい扱いを受けた女性、「自分は『お上』とは意見が違う」と表明したために全身がねじれて真っ黒に腫れ上がるほどの拷問を受けて死んだ人、片道だけの燃料で人間爆弾として送り出された飛行機操縦士、軍刀の切れ味を試すための木偶人形がわりにされて死んだ人、日本軍の捕虜になり強制労働と暴力のうちに死んでいった兵士、アジア各地の炭鉱での劣悪と呼ぶには生ぬるいほどの労働条件のもとで飢えと疲労と絶望の果てに死んだ人、人、人、人…。

その人たちに向かって「過ちは繰り返しませぬから」と語りかける時、私の声は、私の内なる“案内人”が私に向かって呼びかける声と調和しているでしょうか。(調和している奇跡的な瞬間もありますが、たいていの場合、私の声は調子はずれです)
私の声に音の濁りや歪みはないでしょうか。(必ずどこかにあります)
私の歩みは、偽りの希望をもたらす蜃気楼に向かって進んではいないでしょうか。(いつも私のつま先はちょっとだけ、時には全面的に、蜃気楼の方を向いています)
私の心は、“案内人”にナイフを突き立てて、その息の根を止めてしまおうとしていないでしょうか。(「この声さえ聞こえなくなれば、これからとてもお気楽に過ごせるのに!」)
そして、(この問いも、やはりついつい忘れがちになるのですが)私の耳は、私がこれまでにも、そしてこれからも出会っては別れてゆく人々の内に存在する“砂漠の案内人”の、弱々しくも美しい響きをもった微かな声を聞こうとしているでしょうか。

荒涼として灼熱たる砂の海を渡ってゆく旅の只中で「そっちじゃない、こっちだ」と私に呼びかける声を。

筆者: Portulaca